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大仏殿の拝観は8:00 - 17:00
[用語解説 其の一]
仏教の経典が中国語に訳されたとき、古くは「悔過」と訳されていたが、その後「懺悔」と訳されるようになった。日本では奈良時代には主に「悔過」という言葉が用いられ、二月堂の「十一面悔過」をはじめとして諸寺院で「薬師悔過」「吉祥悔過」「阿弥陀悔過」等が盛んにつとめられた。
ところで、「華厳経」の「普賢行願品(ふげんぎょうがんほん)」という章の中の普賢菩薩の偈文(げもん:詩句の体裁で説いている部分)に、「懺悔文(さんげもん)」として現在も広くとなえられている言葉がある。
中国語に訳された華厳経(「大方広仏華厳経」)には、仏駄跋陀羅(ブッダバドラ:359-429)という人が西暦418〜421年頃(晋の時代)に訳した六十巻本、実叉難陀(シクシャー・アーナンダ:652-710)という人が西暦695〜699年頃(唐の時代)に訳した八十巻本、般若(プラジュニャー)という人が西暦798年頃に訳した40巻本、の3種類がある。「懺悔文」はこのうち40巻本の華厳経に載せられており、「悔過」ではなく「懺悔」という言葉が用いられている。
「懺悔文」
我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)私が今までにおかしてきた数々のあやまちは皆由無始貪瞋癡(かいゆうむしとんじんち)すべて限りない過去からの、貪(むさぼり)、瞋(いかり)、癡(無知)により従身語意之所生(じゅうしんごいししょしょう)私の体や言葉や思いを通して犯したものです一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)私は今、これらのあやまちを、全て残らず告白し許しを請います
この普賢菩薩の偈文は、仏駄跋陀訳の六十巻本の華厳経や実叉難陀訳の八十巻本の華厳経には含まれていないが、同様の偈文を、六十巻本の華厳経の訳者である仏駄跋陀羅は「文殊師利発願経」として、また唐時代には不空が「普賢菩薩行願讃」として、華厳経とは別に訳出している。「懺悔文」は、「文殊師利発願経」では「我以貪瞋癡 造一切悪行 身口意不善 悔過悉除滅」、「普賢菩薩行願讃」では「我曽所作衆罪業 皆由貪欲瞋恚癡 由身口意亦如是 我皆陳説於一切」と訳されている。
「懺悔文」でも述べられているように、私たち人間は無限の過去世から、いうなれば本来的に貪瞋癡(とん・じん・ち)と呼ぶ煩悩をもっており、これが原因で、体や言葉や思いを通してさまざまなまちがいを犯してしまう。
このようなことから、練行衆が悔過・懺悔の行をつとめ、罪過を取り除くと共に、四季の恵み、国土の安寧、そして人々の平和と幸福、地球上の全てのいのちが輝けるよう讃仏礼拝の行に昇華して祈りを捧げるのが、「修二会」の行法であるということができる。
二月堂での修二会の期間中、実忠忌が勤められる3月5日の夜と お水取りの行事が行われる3月12日の夜に、二月堂内陣において、 練行衆により「東大寺上院修中過去帳」が読み上げられる。
「過去帳」とは亡くなった方の名前を書き記したもので、 二月堂の内陣に納められている過去帳のことを特に「東大寺上院修中過去帳」 と呼んでいる。その中には奈良時代から現在に至るまで、東大寺や 二月堂に関係した人々、或いは修二会に参籠した僧侶等の名前が記されており、その人たちの冥福を祈るために特に読み上げられる。
鎌倉時代の承元年間(1207-1211)、修二会の最中に集慶(じゅうけい) という僧侶が過去帳を読み上げていたところ、その前に青い衣の女性が現れ、「何故わたしを読み落としたのか」と、恨めしげに問うたという。 集慶がとっさに低い声で「青衣の女人」と読み上げると、その女人は幻のように消えていった。
称揚はすべて暗記で行われるので、習礼においても新入は暗記で声明を唱えていく。 声明の合間には、柄の付いた鈴を振りならしたり念珠をすったり柄香炉にみたてた定規 (一寸×二寸、長二尺ほどの角材)を手にしたり、立ったり蹲踞(そんきょ)したりと数多くの 所作も組み込まれている。習礼では、時導師(新入)が声明を唱える部分と 側(がわ:時導師以外の者)が続いて唱える部分だけしか行わないが、それでも 約2時間ほどの稽古となる。