東大寺の歴史

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東大寺の歴史

奈良時代創建期 -聖武天皇の願い-

7~8世紀の東洋の世界

7~8世紀の東洋の世界は、唐を中心に善隣友好の国際関係が昇華した時代であった。当時の唐朝は道教を信奉したが、同時に仏教も振興し、帰化僧による仏教聖典の漢訳の盛行もそのひつの現れであり、各地で仏教寺院が建立され、それぞれの国家の安寧と隆昌を祈願させた。

これらの政策が、わが国で聖武天皇が天平13年(741)に、国分・国分尼寺建立の詔を発する範となったことは周知のところである。

聖武天皇御影
聖武天皇(画・小泉画伯)

8世紀の日本 -東大寺の前身寺院-

良弁僧正
良弁僧正

奈良時代は華やかな時代であると同時に、政変・かんばつ・飢饉・凶作・大地震・天然痘の大流行などが相次ぎ、惨憺たる時代であった。このような混乱の中、神亀元年(724)二月、聖武天皇が24歳で即位し、待ちのぞんでいた皇太子基親王が神亀四年(727)10月5日に誕生する。ところが、神亀五年(728)9月13日、基親王は一歳の誕生日を迎えずして夭折する。聖武帝は、すぐに親王の菩提を追修するため金鍾山寺を建立(同年11月)し、良弁(のちの東大寺初代別当)を筆頭に智行僧九人を住持させた。

天平13年(741)に、国分寺・国分尼寺(金光明寺・法華寺)建立の詔が発せられたのに伴い、この金鍾山寺が昇格して大和金光明寺となり、これが東大寺の前身寺院とされる。

盧舎那大仏の造立

天平12年(740)2月、河内国知識寺に詣でた聖武天皇は、『華厳経』の教えを所依とし、民間のちからで盧舎那仏が造立され信仰されている姿を見て、盧舎那大仏造立を強く願われたという。とは言え、造立する前に『華厳経(大方広仏華厳経)』の教理の研究がまず必要であった。

『華厳経』の研究(華厳経講説)は、金鍾山寺(羂索堂)において、大安寺の審祥大徳を講師として、当時の気鋭の学僧らを集め、良弁の主催で3カ年を要して天平14年(742)に終了した。この講説により、盧舎那仏の意味や『華厳経』の教えが研究され、天平15年(743)10月15日に発せられた「大仏造顕の詔」に、その教理が示されたのである。もちろん、教理の研究と平行して巨大な仏像の鋳造方法や相好なども研究された上でのことであったことは言うまでも無い。

天平勝宝四年(752)4月に「大仏開眼供養会」が盛大に厳修され、その後も講堂・東西両塔・三面僧房などの諸堂の造営は、延暦八年(789)3月の造東大寺司の廃止まで続行された。

盧舎那仏の名は、宇宙の真理を体得された釈迦如来の別名で、世界を照らす仏・ひかり輝く仏の意味。左手で宇宙の智慧を、右手に慈悲をあらわしながら、人々が思いやりの心でつながり、絆を深めることを願っておられる。

鋳造の場面 画像
「東大寺大仏縁起絵巻」より 鋳造の場面

大仏開眼供養の場面 画像
大仏開眼供養の場面

東大寺の創建

国家の災害・国難などを消除することを説く『金光明最勝王経』の具現が国分寺の建立となり、さらに発展して、世界に存在するあらゆるものは、それぞれの密接な相関関係の上に成り立ち、平和で秩序ある世界を形成していると説いている『華厳経』の教理の実現が、東大寺の創建につながっていったと言えよう。

東大寺の正式名称は、「金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)」と言う。当初、紫香楽宮において造仏工事が開始されるが、山火事が頻発し地震の続発などにより、平城京に還ることを決意、天平十七年(745)8月、大仏造顕の工事は金鍾山寺の寺地で再開されることになった。金鍾山寺では、先の「華厳経講説」の後、天平15年(743)正月から3月にかけて『最勝王経』の講讃が、49人の学僧を招いて行なわれるなど、当時の仏教界をリードする活発な宗教活動や研究が行なわれていた。

八宗兼学の道場

そもそも東大寺は国分寺として建立されたので、国家の安寧と国民の幸福を祈る道場であったが、同時に仏教の教理を研究し、学僧を養成する役目もあって、華厳をはじめ奈良時代の六宗(華厳・三論・倶舎・成実・法相・律)、さらに平安時代の天台・真言も加えた各研究所が設けられ、八宗兼学の学問寺となった。

天平文化

官大寺を造顕する場合には、造寺司・造仏殿司といった官庁が設けられて造営にあたるが、東大寺の場合も、当初は金光明寺造仏所が設けられ、のちに造東大寺司になり、それまでの諸大寺に比べて遥かに規模が大きかったために、多くの支所が設けられた。奈良時代の文化、特に聖武天皇治政の時代の文化を天平文化と称し、その国際的性格を高度に具えた特色は、まさにこの造東大寺司が原動力となり、この文化が凝固し昇華したのが東大寺であったと言っても過言ではないであろう。

華厳の教え (蓮華蔵世界/蓮弁)

こうした中、聖武天皇は紫香楽宮の造営が開始された天平15年(743)10月15日に「盧舎那大仏造立の詔」を発せられる。

聖武天皇は、人々が思いやりの心でつながり、こども達の命が次世代に輝くことを真剣に考えられ、動物も植物も共に栄えることを願い、さらには造像にあたっては、広く国民に「一枝の草、ひとつかみの土」の助援をよびかけられた。つまり、大仏の造立は皇室や政府の事業のみならず、国民に結縁を求め、助力によって完成しようとした点に、従来の官大寺建立とは明らかに異なるものがある。いわゆる大衆を知識(協力者)として造立を果たそうとしたもので、この精神は各時代の再興や修理にあたって、現代に至るまで常に相承されてきている。

発願の詔が出された四日後には、すでに民衆から人望が厚く仏教伝道に実績のあった行基が、弟子たちを伴い勧進行脚に出発している。

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