源平争乱の平安時代末、治承4年(1180)の平家の南都焼討ちによって大仏殿をはじめとする東大寺伽藍が灰燼に帰した一大事件は、朝野に末法到来を強く印象付けました。その復興に大勧進として尽力されたのが俊乗房重源上人(1121~1206)でした。重源上人は真言を学び、山野で修行を重ねる一方、中国へ三度も渡るなど様々な知見と最新技術に通じていましたが、浄土教にも信仰篤く、復興事業が始まってからほどなくして、自らを「南無阿弥陀仏」と称し、また帰依する人々にも身分の上下分け隔てなく阿弥号を授与するなど、東大寺復興の勧進にあたっては、念仏信仰をもって人々の現世と来世にわたる平安の祈りにこたえようとされました。