東大寺のあゆみ

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鴟尾放光  奈良市内から東の方を眺めると、三笠山麓の深い緑の中に、燦然と鴟尾(しび)を輝かせている大仏殿を見る事ができます。この大仏殿を金堂とする伽藍が、華厳宗大本山、「東大寺」です。
創建
開山良弁僧正

勧進行基菩薩
 東大寺のはじまりは、神亀5年(728)、聖武(しょうむ)天皇の皇太子、基(もとい)王の菩提を追修するために建てられた金鐘山寺(きんしょうせんじ)にまで遡ることができます。

 この金鐘山寺において、天平12年(740)のこと、後に東大寺初代別当となる良弁が主宰して、我国で初めて、『華厳経(大方広仏華厳経)』の講読がはじめられました。

 この講義は、新羅で華厳(けごん)経の教えを学んだ大安寺の審祥を講師に招き、『六十華厳』といって、ブッダバドラ(仏駄跋陀羅:359−429)という人が中国語に訳した60巻本の『華厳経』をテキストとして進められました。また注釈書には中国華厳宗の第三祖で華嚴教学の大成者といわれる法蔵(賢首大師)が著した『探玄記』が用いられたといいます。

 鏡忍・慈訓・圓澄を複師とし、南都の碩学16人を聴衆として、1年に20巻ずつ講義は進められ、3年後の天平14年(742)にようやく初回の講読を終講する事ができました。

 聖武天皇による盧舎那大仏(大仏さま)造顕は、河内国知識寺において天皇が盧舎那仏を拝した事がきっかけであったといわれていますが、『華厳経』の教理が明らかにされて初めて盧舎那大仏造顕という大事業の発願が可能だったのではないでしょうか。

 
このようなことを考えると、良弁により主宰されたわが国ではじめての『華厳経』講読の成果が、後の盧舎那大仏(大仏さま)造顕に結実したといっても過言ではありません。 


 一方、天平13年(741)には、聖武天皇により「国分寺・国分尼寺建立の詔」が発せられ、全国に国府を中心として僧寺(金光明四天王護国之寺、国分寺)と尼寺(法華滅罪之寺、法華尼寺、国分尼寺)が置かれると、金鐘山寺は大和国の国分寺に充てられ、金光明寺とも呼ばれるようになりました。

盧舎那大仏造立の詔と
大仏開眼



聖 武 天 皇
(馬堀喜孝画)



開眼導師菩提僊那
(四聖御影より)


実 忠 和 尚
 天平15年(743)10月15日、このような背景のもと、聖武天皇は「盧舎那大仏造顕の詔」を発せられます。これにより、先ず紫香楽(現在の滋賀県甲賀郡信楽町)において盧舎那大仏の造像事業が開始されることとなりました。

 「盧舎那大仏造立の詔」の中で、「乾坤相泰(けんこんあいやす)らかに万代の福業を修め、動植咸(ことごと)く栄えん」ことを願い、国民に「一枝(ひとえだ)の草、一把(ひとにぎり)の土」の結縁をうったえ、知識として自主的に造営に関わることを呼びかける聖武天皇の姿勢は、それまでの国家事業の進め方とは大きく趣を異にするものでした。これを受けて詔の出された4日後には、僧行基が弟子たちを伴い勧進(寄進を募ること)をはじめたと伝えられます。

 このようにして「盧舎那大仏(大仏さま)」の造像がはじめられるのですが、紫香楽の山に火災が頻発したことや地震が続いたことなどにより、国都は紫香楽から再び平城京に遷され、これに伴い盧舎那仏造立の地も紫香楽から大和国金光明寺、即ち現在の東大寺の寺域に変更されることになりました。

 天平17年(745)には大仏さまの造像工事が始まり、天平19年(747)9月から天平勝宝元年(749)10月まで、3ヶ年8度の鋳継ぎを経て大仏さま本体の鋳造が完了、天平勝宝3年(751)には螺髪の鋳造並びに頭部への取り付けも終わり、天平19年(747)より平行して工事が進められていた大仏殿もこの年ほぼ形を整え、天平勝宝4年(752)4月には盛大な開眼供養会(かいげんくようえ)が行われました。この年は、わが国に仏教が伝来して200年目に当る年であったとされます。

 大仏開眼供養会は、孝謙天皇、聖武太上天皇、光明皇太后の行幸のもと、インド僧菩提僊那(ぼだいせんな)が聖武上皇に代わって開眼の導師をつとめ、『華厳経』が盧舎那仏宝前に講読せられ、その様は、「仏法東帰してより斎会の儀、未だ嘗て此の如く盛なるはあらず(『続日本紀』)」と評せられるほどの法要であったといいます。

 大仏殿を中心とする東大寺の七堂伽藍の造営は、この後、延暦8年(789)の造東大寺司の廃止まで続けられ、ようやく一応の完成をみることができました


 なお、平成14年は、この天平開眼から1250年目の年にあたります。

 
このように東大寺は、「発願聖武天皇」・「勧進行基菩薩」・「開山良弁僧正」・「開眼導師菩提僊那」、の四聖(ししょう)の協力により造立された寺であるというので、「四聖建立の寺」とも称せられるようになります。

 その他、大仏開眼供養会の行なわれた天平勝宝4年(752)には、現在も東大寺二月堂に「修二会」として伝わる「十一面悔過」が、実忠和尚(じっちゅうかしょう)によって創められたと伝えられます。この法会は以後一度も途絶える事無く続けられ、今日も「お水取り」「お松明」として親しまれ、奈良に春を呼ぶ法会として幅広い信仰をあつめています。

 また唐僧鑑真(がんじん)は、栄叡(ようえい)・普照(ふしょう)を遣わした我国からの律僧招請に応じ、渡海を試みること6度、12年の歳月を経て、天平勝宝6年(754)、漸く来朝を果たし、この年、大仏殿宝前に設けられたわが国初の戒壇に於て、聖武上皇・孝謙天皇等に戒を授けました。以後、鑑真は授戒伝律の指導者として、大仏殿の戒壇を移築した東大寺戒壇院を授戒の根本道場とするとともに、伝律の道場として唐招提寺を設けて戒律の教導に尽されました。
天平文化

 さて、この時代に、中国やシルクロード世界の影響を受けて興った絢爛たる仏教文化のことを日本文化史上特に「天平(てんぴょう)文化」と呼んでいます。仏教経典の研究や写経をはじめとして、建築、彫刻・絵画、美術工芸など、「百花匂うが如く」と喩えられますが、まさに天平文化は、東大寺の創建造営によって一気に昇華したといっても過言ではありません。

 東大寺では、法華堂ならびに法華堂の諸仏はいうまでもなく、蓮華蔵世界を刻んだ大仏さまの蓮華坐や大仏殿八角灯籠に舞う音声菩薩像などに、天平芸術の精華を今日なお間近にうかがうことができます。


 また、天平文化を語るについては、悲田院・施薬院を設けるなど仏教の教えによる社会福祉にも意を尽くし、わが国の仏教文化受容に積極的な役割を果たされた光明皇后も、大変大きな役割をはたされたといわねばなりません。

 光明皇后は聖武天皇の崩御にともなって、天皇の生前遺愛の品々や大仏開眼供養会に関わる法具類等、天平文化を如実に物語る様々な品を東大寺盧舎那仏に献納されました。これらは正倉院(現在は宮内庁所管)に納められ、兵火の難をものがれ今日まで伝えられてきました。
東の大寺

 ところで、この「東大寺」という名称はいつ頃から使われるようになったのでしょうか。

 「東大寺」という言葉が天平19年(747)の正倉院文書(天平19年12月15日「写経所解」、また同22日「近江国坂田郡司解」や東大寺出土木簡には「東大之寺」の名称あり)に初めて現れる事などから、大和国の国分寺に充てられた金鐘寺(金鐘山寺)が金光明寺と呼ばれるようになり、その金光明寺が大仏殿を中心とする大伽藍として再編成され、やがて国都平城京の東に建つ大寺(官寺)という意味で「東の大寺(ひむがしのおおてら)」と呼ばれるようになったと考えることができます。

 このような経緯から、東大寺が、天下泰平・万民豊楽等を祈願する道場であったことはいうまでもありませんが、同時に南都諸大寺と同様、仏教の教理を研究し学僧を養成する機関でもありました。六宗兼学といって寺内に三論(さんろん)・成実(じょうじつ)・法相(ほっそう)・倶舎(くしゃ)・華厳(けごん)・律(りつ)の六宗の宗所(教団)が併存し、他宗との兼学や他寺へ行って学ぶのも自由で、この点、今日の大学のような役目を兼ねていたと考えられています。
治承の兵火と復興造営

大勧進重源上人


理源大師聖宝
 古く天平時代に創建され大伽藍を誇った東大寺ですが、有為転変の言葉どおり、やはり盛衰興廃の歴史を辿らざるをえませんでした。

 平安時代には、斉衡2年(855)、地震のために大仏さまの頭部が墜ち、真如法親王によって修復事業が進められ、貞観3年(861)に開眼供養が行われました。その後、講堂や三面僧房、西塔などの焼失、暴風雨による南大門や大鐘楼の倒壊などによる営繕事業が行なわれましたが、平安朝400余年の間については、それでもむしろ泰平であったといわなければなりません。


 やがて平安時代末、源平抗争さなか、平重衡の軍勢が南都を攻め、この兵火の為に治承4年(1180)12月28日、東大寺も大仏殿をはじめ伽藍の大半を焼失してしまいました。

 焼失した大仏殿を中心とする東大寺伽藍の復興造営は、俊乗房重源によって翌年から着手されるところとなります。

 俊乗房重源は大勧進職として全国を勧進する一方で源頼朝公の援助も得て復興を進め、文治元年(1185)には後白河法皇を導師として大仏さまの開眼供養を挙行、建久6年(1195)には後鳥羽上皇や源頼朝公の臨席も得て大仏殿落慶供養、さらに、建仁3年(1203)には後鳥羽上皇の行幸を得て東大寺総供養を行なうことができました。


 教学の面に目を向けてみると、奈良時代には六宗兼学といっていたものが、平安時代には「天台」と「真言」の二宗を加え、「八宗兼学」を標榜するようになりました。ことに真言宗については、弘仁13年(822)真言院が創建され、貞観17年(875)聖宝(理源大師)により東南院が創建されると南都に一大勢力を誇るようになりました。また、東大寺の本旨たる華厳宗については、平安時代はやや沈滞期であったものの、再興を期して、天暦9年(955)、別当光智により華厳宗の道場として尊勝院が建立されました。

 鎌倉時代になると、東大寺再興の進展と共に寺内の教学活動も活発になり、尊勝院弁暁(べんぎょう)・宗性(そうしょう)、真言院の聖守、戒壇院凝然(ぎょうねん)など、多くの学僧を輩出しました。

 弁暁は俊乗房重源による復興造営を助けるとともに、明恵上人高弁を華厳学頭に招じて華厳教学の隆昌を期し、宗性は文応元年(1260)東大寺別当にも補任されていますが、尊勝院を拠点に華厳宗の興隆につとめ、文永3年(1266)には後嵯峨上皇の勅により華厳を講じ、多くの著作を残しました。また凝然は、律を本旨としつつも尊勝院宗性に華厳を学び、後宇多上皇の授戒師となり示観国師の号を賜るとともに、『八宗綱要』をはじめとして数多くの著述を残しています。
永禄の兵火と再建造営

大勧進公慶上人
 しかしやがて、鎌倉時代をへて室町時代も末になると、群雄割拠、世は下克上の気運に満ち、大和国もまた戦乱の巷となることを免れませんでした。永禄10年(1567)10月10日、三好松永の乱による兵火は大仏殿にも及び、二月堂・法華堂・南大門・転害門・正倉院・大鐘楼などは残ったものの、東大寺の大伽藍を再び灰燼に到らしめたのでした。

 時は戦国時代、世相混沌として、伽藍の復興は困難を極め、仏頭を銅板で補っただけの大仏さまは「露座の大仏」と称されるありさまでした。

 その後100年余りの歳月を経て江戸時代に入ると、漸く公慶上人が徳川幕府に働きかけ、また大勧進職として諸国を勧進し庶民の結縁を求めるとともに、諸大名にも協力を仰いで東大寺の再建造営に取りかかりました。

 その結果、大和出身の護持院隆光の協力を得られたことが奏効して、五代将軍綱吉公と桂昌院、また柳沢吉保(よしやす)らの援助も得られ、大仏さまの開眼供養を元禄5年(1692)に、さらに建築規模は約三分の二に縮小されたものの、再建大仏殿の落慶供養を宝永6年(1709)に行う事ができました。以後伽藍の整備再建は明治維新に到るまで歴代の大勧進職によって続けられ、ほぼ現在のような寺観を呈するようになりました。

現況


 明治維新の廃仏毀釈の嵐は、京都、奈良の諸大寺にも深刻な打撃を与え、廃藩置県による寺社領没収は東大寺の存立そのものに大きな危機をもたらしました。

 しかし東大寺では寺門改革などを経て、明治・昭和の二度に渡る大仏殿大修理をはじめ、南大門・轉害門の解体修理、平成の南大門仁王尊像の解体修理、総合防災事業の実施など伽藍の維持に努め、平成10年には「古都奈良の文化財」として世界文化遺産にも登録され現在に至っています。

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