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公慶上人坐像(東大寺公慶堂)
公慶上人坐像(東大寺公慶堂)

東大寺 公慶上人

 奈良時代、聖武天皇の勅願によって建てられた東大寺の大伽藍は、平安時代末期の源平の争いのあおりから、治承4年(1180)に平重衡の兵火によって灰燼に帰してしまった。この東大寺の復興に当たったのは俊乗房重源上人(1121−1206)で、翌年、朝廷から東大寺造営勧進職に指名されるや、大仏の修復・大仏殿の再建と、61歳から86歳までの4半世紀を東大寺の復興に捧げられた。

 ところが天平の往時を偲ぶことができた鎌倉期の大伽藍も、戦国時代の混乱の只中に巻き込まれ、永禄10年(1567)、三好・松永の兵火で焼失した。創建当初の建物はわずか三月堂・二月堂・転害門を残すのみとなり、鎌倉時代のそれは南大門だけという惨状であった。大仏は雨ざらしとなり、しかも御頭を欠き、各所には損傷の痕が見られる痛ましい姿となった。大仏復興の動きはただちに始まったものの、仏頭は木芯を銅板で覆ったものであり、お堂は雨露をしのぐだけの小さな仮堂に過ぎなかった。しかもその仮堂も、慶長15年(1610)の大風で倒壊し、大仏の痛ましさはさらに増した。

 それから半世紀後、13歳で東大寺大喜院に入った公慶は、雨のそぼ降る日に大仏を拝し、自分には傘があるが、大仏は風雨にさらされたままだと涙し、ひそかに大仏殿再興の志願をおこした。年々二月堂修二会に参籠するかたわら、学問の研鑽に努めていた公慶は、37歳となった貞享元年(1684)、江戸幕府に赴き、大仏殿の再興と諸国勧進を訴え、翌月寺社奉行より許可を得た。ただ許可の内容は、勧進は勝手次第だが、幕府が援助するものではないというものであった。

勧進杓 翌年公慶は、大仏修復の資金を得るために勧進帳を作成し、結縁を求めた。その年の11月29日、大仏の宝前にて大仏修復釿始めの法儀を行い、終わると、草鞋をつけて南都の町に繰り出し、重源上人が携えられた蓮実の勧進杓を手に、一文二文と寄進を勧めた。公慶の悲願を知った奈良町では、次第に勧財を喜捨する者も増え、その輪は全国へと広がっていった。

 翌貞享3年(1686)には大仏の鋳掛けが始まり、修復は蓮花座から仏身へと進んだ。また貞享5年(1688)閏4月には、大仏殿釿始めの千僧供養も執り行われた。これには南都の大工組を中心に、500人もの工匠が各地から参集した。こうした動きに、ときの東山天皇も公慶に上人号を許された。一方、大仏の鋳掛けは元禄4年(1691)2月に終了し、完成した像を雨露からまもるために板葺きの巨大な仮厨子が建てられた。

大仏開眼図屏風より鋳掛始めから6年を経た元禄5年(1692)、3月8日から4月8日まで、1ヶ月間にわたり大仏開眼供養の盛儀が営まれた。開眼の導師は東大寺別当勧修寺宮二品済深法親王がつとめ、勅使の参列、寺内の僧衆の出仕はもとより、幕府の代表としては奈良奉行の大岡美濃守忠高が参列、町中を与力同心が警護した。法会の期間中は東大寺以外の僧衆も出仕し、その総数は1万2800僧、一般の参詣者に至っては20万余に達する盛大なものとなった。奈良中が未曽有の賑わいを見せたことは言うまでもない。

 だがこれに続く大仏殿の造営は、とてつもなく莫大な費用を要するものであった。公慶上人は早速、新たな勧進帳を作り、造営の結縁を求めるが、幕府の積極的な協力なくしては実現不可能であった。翌元禄6年(1693)、知足院隆光の取持ちで桂昌院に会い、続いて側用人柳沢出羽守保明を通じて将軍綱吉に拝謁した。幕府は大仏修復のときとは違い、上人の願いに応えて、支援の積極的な姿勢を打ち出した。

 幕府は上人が見積った18万両という目標額に応えるために、諸大名の協力を求めるとともに、人別奉加による募財方式を打ち出し、勘定奉行荻原近江守重秀を最高責任者に据えた。大仏殿再建は事実上幕府の直轄事業となった。しかし、それでも創建当初の規模で復興することは困難で、上人としては大仏殿の間口を11間から7間に縮小する案に妥協せざるを得なかった。

それにしても難関なのは、大仏殿の大屋根を支える2本の大虹梁用松材の確保であった。幸い霧島山系白鳥山で発見され、元禄17年(1704)正月に切り出し、8月10日には木津に到着した。2本の大虹梁は台車に乗せられ、19日に出発、奈良町と近在の村々総出で引き回し、翌月5日には大仏普請所に届けられた。これで再建工事は本格化した。

翌宝永2年(1705)閏4月10日に大仏殿上棟式を済ますと、上人は休むまもなく江戸に向けて出立した。だが、待っていたのは大仏殿再興の影の推進者であった桂昌院の逝去であった。そのうえ上人自身もまた病を得て、翌7月12日、客死されたのである。享年58歳であった。遺骸は幕府の特別許可を得て箱根の関所を越え、東大寺まで運ばれ、近在の五劫院に埋葬された。翌年、遺弟公盛は勧進所内に御影堂を建立し、仏師性慶と公慶の弟子即念が製作した御影像を安置した。現在の公慶堂と公慶上人坐像がそれである。

一方、大仏殿の再建そのものは、公盛が上人の後を継いで大勧進となり、幕府の計画通り推進され、宝永6年(1709)3月21日から18日間にわたる落慶供養を迎えて、一応の完成を見たのである。













東大寺大仏殿

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