東大寺の歴史

東大寺の歴史

東大寺のあゆみ

永禄の兵火と江戸期再建造営

 しかしやがて、鎌倉時代をへて室町時代も末になると、群雄割拠、世は下克上の気運に満ち、大和国もまた戦乱の巷となった。永禄10年(1567)10月10日、三好松永の乱による兵火は大仏殿にも及び、二月堂・法華堂・南大門・転害門・正倉院・大鐘楼などは残ったものの、東大寺の大伽藍を再び灰燼に到らしめた。

大勧進公慶上人 東大寺

 大仏尊像は雨ざらしとなり、しかも御頭を欠き、各所には損傷の痕が見られる痛ましい姿となった。大仏復興の動きはただちに始まったものの、仏頭は木芯を銅板で覆ったものであり、お堂は雨露をしのぐだけの小さな仮堂に過ぎなかった。しかもその仮堂も、慶長15年(1610)の大風で倒壊し、大仏の痛ましさはさらに増した。

  時は戦国時代、世相混沌として、伽藍の復興は困難を極め、仏頭を銅板で補っただけの大仏さまは「露座の大仏」と称されるありさまであった。

重源上人 東大寺

 それから半世紀後、13歳で東大寺大喜院に入った公慶は、雨のそぼ降る日に大仏を拝し、自分には傘があるが、大仏は風雨にさらされたままだと涙し、ひそかに大仏殿再興の志願をおこした。年々二月堂修二会に参籠するかたわら、学問の研鑽に努めていた公慶は、37歳となった貞享元年(1684)、江戸幕府に赴き、大仏殿の再興と諸国勧進を訴え、翌月寺社奉行より許可を得た。ただ許可の内容は、勧進は勝手次第だが、幕府が援助するものではないというものであった。

 しかし、大和出身の護持院隆光の協力を得られたことが奏効して、五代将軍綱吉公と桂昌院、また柳沢吉保(よしやす)らの援助も得られ、大仏さまの開眼供養を元禄5年(1692)に、さらに建築規模は約三分の二に縮小されたものの、再建大仏殿の落慶供養を宝永6年(1709)に行う事ができた。以後伽藍の整備再建は明治維新に到るまで歴代の大勧進職によって続けられ、ほぼ現在のような寺観を呈するようになった。

現状

 明治維新の廃仏毀釈の嵐は、京都、奈良の諸大寺にも深刻な打撃を与え、廃藩置県による寺社領没収は東大寺の存立そのものに大きな危機をもたらした。
 しかし東大寺では寺門改革などを経て、明治・昭和の二度に渡る大仏殿大修理をはじめ、南大門・転害門の解体修理、平成の南大門仁王尊像の解体修理、総合防災事業の実施など伽藍の維持と文化財の保護に努め、平成10年には「古都奈良の文化財」として世界文化遺産にも登録された。
 平成22年5月から開始された法華堂須弥壇修理事業は、愈々23年6月から須弥壇の解体作業が始まる。本尊不空羂索観音立像がたっておられる八角二重壇は国宝に追加指定され、須弥壇とともに詳細な調査、最新機器による測定が徹底的に実施される予定。
 法華堂の拝観は、25年3月末まで停止せざる得ない状況であるが、学術的にも大きな成果が期待される。

 奈良時代に、多くの人々の助力を得て創建された東大寺は、鎌倉、江戸の復興期はもちろんのこと、大きな修理が行われる時には、その時代の多くの人々の助力を得て、現在に至っていることを忘れてはならない。


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