秘仏開扉

秘仏

重文 公慶上人坐像(こうけいしょうにんざぞう)

開扉 毎年 4月12日(有料)
    10月5日(有料)
 重文
制作年代江戸時代
像高69.7cm
制作材質木造
安置場所公慶堂

公慶上人(1648~1705)は大仏殿および大仏の江戸再興にその生涯をかけた僧であり、東大寺では鎌倉時代の俊乗房重源に次ぐ、第二の中興開山といわれる。彼は十三歳の時、東大寺大喜院で得度し、雨に打たれる露座の大仏を見て大仏殿再建の志を立てたという。貞享元年(1684)三十七歳の時、江戸幕府に大仏殿再興および諸国勧進を願上し、翌二年から勧進を開始した。貞享三年(1686)から始まった大仏の修復は六年を要し、元禄五年(1692)開眼供養が行われた(四十五歳)。さらに大勧進公慶は大仏殿再興に尽力し、宝永二年(1705)閏四月に大仏殿の上棟式を執行したが、三カ月後の七月十二日江戸で病にかかり、工事半ばで示寂した。享年五十八歳。没後、公慶上人の偉業を伝えるため、遺弟の公盛によって本像が造立され、翌三年(1706)五月、龍松院勧進所の御影堂に奉られた。ちなみに大仏殿の落慶は没後四年の宝永六年(1709)であった。

本像は朱衣および袈裟を着けて、胸前で手を組み、畳座に坐して礼拝する姿をあらわす。袈裟の色は茶色を地とし、朱・銀の盛上彩色によって雲龍文を散らしている。表現方法ともに近世彫刻の伝統を踏襲し、衣文構成に形式の硬化と誇張が指摘できるのだが、しかし頭の鉢が大きく、小さな目が窪み、頬のこけた風貌は、生彩がある。柔和な表情のなかに公慶上人の不屈の信念があらわれており、像主の感情表現は写実的である。「公慶年譜」によると、本像は大阪仏師の椿井民部法橋性慶と公慶の弟子即念の共同制作によると記している。町仏師の性慶が彫刻担当なのだが、公慶上人に親炙していた即念が、みずから「頭面」を模刻したという。「まことに、その生けるを見るがごとし」との評言は、二人の彫刻的技量を考えるのに示唆深い。本像は江戸彫刻のなかでも写実に優れた肖像として注目すべきものである。

作者性慶は本像造立を遡ること七年前の元禄十一年(1698)に当寺念仏堂の地蔵菩薩像(鎌倉時代)を修理しており、元禄十四年(1701)徳川家康(東照権現)像を造立した。椿井の姓は室町時代奈良仏師のひとつ、椿井仏所に求められ、江戸時代の寛文六年(1666)椿井仏所が分裂し、一派が大阪堺筋町に移り住んだという。即念は前に述べたとおり、公慶上人に長らく随ってきた弟子であり、他に大仏の光背のために京都の大仏光背を検分しており(正徳四年 1714)、また行基菩薩(享保十三年 1728)を椿井賢慶とともに作っている。

お願い
堂内での撮影・スケッチ・懐中電灯の使用はご遠慮下さい。

→公慶堂の場所はこちら境内案内図

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